第壱流 「ナキボクロ」

自分には幼い娘がいる。とても可愛い盛りだ。

見るモノ全てが新鮮でこっちを振り向いては無邪気な笑顔を投げかけてくる。

しかし私は実はまだ娘と話をしたことがない。

彼女は声を発するということがどうやらとても苦手な様だ。


そんな話はどこかでずっと遠い世界のことだと思っていた。


どうやら耳が聴こえないわけではない。むしろ過敏なくらい聴こえている。ピアノがとても好きで、一日中鍵盤と楽譜だけが流れていく動画を眺めている。気がつけば教えてもいないのに楽譜が読めるようになっていた。

結局、話すことを覚える前に、弾くことを先に覚えてしまった。

もしかすると、この子の世界は音符で成り立っているのかもしれない。

彼女は言葉を制限されている代わり“視る力”がとても強い。私が何とかコミュニケーションをとろうと使い出した手話を思いのほか上手に使い出した。

彼女はとてもよく泣いた。感受性も人一倍強い。

右目の下にナキボクロがあるので、親しみを込めて「ナキボクロさん」と呼ばれている。本人も何故かこのあだ名を気に入っているようだ。大好きな祖母がそう呼んでくれていたからかもしれない。

とても天気の良いある秋の日の夕暮れ。今日は休日だった。

小さくささやかなリビングで、娘とふたり、各々本を広げてそれぞれ読み耽っていた。

少し読み疲れてふと顔を上げると、娘が床に広げた本をそのままに、猫の額ほどの裏庭をじっと見つめている。

そこには、二階にまで届きそうな大きな自然樹形のツツジが植えられており、その下には盆栽から成長した小さなウメや、ユキヤナギやヤマブキ、そして四季折々に咲く山野草が雑多に芽吹いており、庭には常に季節を感じられる何かがあった。今は白いシュウメイギクが花茎を高く伸ばし競うように沢山咲き誇っている。

「ほんのささやかな庭だけど。」

この家に引っ越した時、庭師だった父が遠く訪ねて来てくれて、そう言って汗を流しながら、たった1日で造ってくれた。

小さな樹々の背後には背の低いブロック塀が積まれていた。もっと小洒落た塀に替えればもっと見栄えもよくなるのかもしれないが、この少し薄汚れて苔の生えた風情が何となく気に入っていた。

このブロック塀は近所の野良猫たちの通り道になっていた。どうやら一方通行ではないらしく、猫たちが対面しあっては一触即発になっていることがある。

また野良猫が歩いているのかなと思い、娘の見てる方に目を向けた。

もう夕方だったはずなのに外が明るい。いや、庭が白くなって色が溶け込んでいる。そう言った方が正確かもしれない。塀の上に何か立っている。市松模様のブーツ。スラッと長いボトムカットのズボン。ピシッとアイロンの当たった襟の高いシャツ。襟には★のマークがついている。

雨も降っていないのに、コウモリ傘をさしている。

猫…だ。

二本足で塀の上に立っている子供くらいの背格好のその猫は、舌を大きく出していた。瞳孔が開いた丸い目でじっと娘と見つめあっている。白黒のハチワレで、額に向かって白い稲妻型の模様が入っていた。右の耳がない。左耳は後ろを向いている。

あまりの出来事にふたり固まっていると、猫はゆっくりと目を伏せて、塀の上に片膝を立てて座り、何か言いたそうにこちらに向きなおした。相変わらず舌をしまい忘れたまま耳は後ろを向いていた。

一瞬、娘と顔を見合わせた。今見ている出来事が本当なのか自信がなかったのだ。

もう一度外を見るともう薄暗くなっている。急いで立ち上がり庭に降りて確認してみたが、庭に白いシュウメイギクが微かに揺れているだけだった。月を見てコオロギも鳴き始めている…。

少し落ち着こう。ゆっくり息をはきながらリビングに戻り電気をつけると、娘がキツネにつままれたようなキョトンとした顔でこちらを見ていた。

「傘」「猫」「いた?」

手話で私に聞いてきた。同じものを見ていた。私はゆっくり首を振った。とても残念そうな顔をした。

ふらつきながら我が家の茶トラ猫がトコトコとリビングに入ってきた。

もう随分年寄りになったが、最初から親がいなくて、ヘソの緒がついた状態から育てた猫だ。私を親のように慕ってくれている特別な存在だった。兄弟で保護したのだが、一匹は残念ながら夏の終わりに旅立っていた。

夕飯の支度をしている間、娘は床に紙をたくさん広げ、一所懸命、舌をしまい忘れた猫を描いていた。横には茶トラが座って、時折大きくまばたきをしながら神妙に娘のすることを見ている。足に関節炎を患っているので、ライムグリーンのきれいな色をしたテーピングを巻いている。まるで靴下を履いているようだ。

炊飯器から白い水蒸気が上がり、コトコト湯だった味噌汁に小さく切った豆腐と刻んだネギを入れながら、さっきのことを考えていた。

私はあの猫のことを知っている。

ぼんやりとした記憶を手繰り寄せながら支度をすすめていると、足元で娘がニッコリ笑っていた。手には私のお箸と自分のコップを持っている。テーブルを見ると、娘なりにフキンで拭いた跡があり、ランチョンマットがひいてあった。

「ありがとう。」

少し屈んで頭を撫でながら言うと、もう一度得意そうに微笑んだ。

実は私と娘は血がつながっていない。妻の忘れ形見だ。私は今、この娘と年老いた茶トラの猫を何よりも大事に思っている。二十歳そこそこの時は、割りと独りでも大丈夫なたちだった。でも今はもう、どんなに自分の時間が失くなろうとも、独りの生活に戻ろうとは思わなかった。

「そういえば」

急に記憶のふたが開いて思わず言葉が口をついた。娘がキョトンとこちらを見ている。娘に向き直って言った。

「そういえば、とてもお母さんに似ていたな。あの舌をしまい忘れた猫の話に出てくる人は…」

それは私が子供のころ父が聞かせてくれた昔話だ。今思えば最初に妻に出会った時、初めての気がしなかったのはそのせいだったのかもしれない。彼女はお母さんというキーワードに反応しつつも、よく理解出来なくて天井近くまで目を泳がせていた。

しかし話をするにも、まだ詳細が記憶の奥底でボヤけている。モヤをとるのに少し時間が必要なようだ。とりあえずナキボクロさんが安心するように、目を細めて笑顔で優しく言った。

「ごはんを食べよう。それだけできっとそのうち良いことが起きる。」

娘と一緒にテーブルの準備を進めた。娘は薄い赤のストライプのランチョンマット。私のは薄い青のストライプだ。

この子は魚がとても好きなので、今日はウォーターオーブンで小ぶりな鯛をふっくらと蒸した。綺麗なサクラ色の皮の下から、身がはち切れんばかりになっている。何も味はつけていない。少し塩をふるだけだ。

近所のスーパーに入っている魚屋が、サメを丸々一匹、店頭に展示してしまう仕入れスキルの高い店で、毎日とれたての新鮮な魚を安く手に入れられた。そのため我が家は鯛でも割と日常的に食卓に上げることが出来た。

美味しい。娘がニッコリとして自分の頬をかるく二回トントンと叩いた。ほっぺが落ちそうという意味だ。

ご飯と味噌汁からわきあがる湯気の向こうに、茶トラが硬いフロアに横になって寝そべっている。若い頃と違って随分カラダが骨ばってきたので柔らかい寝床を作ったのだが、どうしても硬いフロアが好きみたいだ。

じっと見ていると視線を感じたのか、横たわって目を閉じたまま、左手をグッと伸ばし、指を開いて爪を出し、そのまま伸びをして深い眠りに入った。

体が硬くなってきて満足に顔も洗えないので、毎日温かいお湯で濡らした固く絞ったタオルでカラダを拭いている。

体重が減り続けているのにフードをあまり食べてくれない。高齢猫用の流動性の良いウェットフードをレンジで少し暖めて、小さな器に入れ、座ったままでも食べられる様、顔の前で食べ終わるまで皿をじっと持っている。そうすると何とか食べてくれる。

大変、と云えば大変なのだが、先に虹の橋を渡った兄弟の片割れは、介助させてくれる間もなく旅立ったので、こういう時間さえもとても幸せに感じた。

また一瞬外が明るくなった気がした。

外を見ると、庭につけた30ワットの仄かな明かりと、明るい月夜の光が草木を照らしているだけだった。

すっと、野良猫の影が視界の端を横切ったように思い、そちらに目を向ける。網戸の向こうからは、秋の虫の声と共に少し湿った風が入ってきた。少し肌寒い。月光も僅かに陰った。

「一雨くるのかな?」

ナキボクロさんの少しカールした髪の毛を見ながら言った。彼女は生まれつきクセっ毛で雨になると毛先がくるくるカールするのだ。

私の目線に気がついて、若干涙目になりながら頬を膨らませてみせた。こちらの特徴はあまりお気に召していないようだ。

むしろそっちのほうが可愛いのに。そう思いつつ、目を泳がせながら庭に面したはきだし窓を閉めに立ち上がった。

茶トラは深い寝息をたてている。

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