それは遥か昔に消えた、ある大陸のはずれ。
深い銀色の緑の森に覆われた先に、ひっそりと暮らす人びとがいた。
彼、彼女、そしてその地に暮らす動物たちは、みんなとても幸せに暮らしていたが、みんな一様に、とてもとても寿命が短かった。
この地では、この世に生まれてからある一定の時間が過ぎ去ると不治の病にかかるのだ。
この病にかかると、人も動物もすごく苦しんで亡くなってゆく。
だから、それゆえに、この地の人々や動物は思いやりに溢れ、幸せの意味も知っていた。
しかしながら、深い銀色の緑の森の先には誰も近づくものはいなかった。
その地の外側の人や動物たちは、得体のしれない苦しみと死を恐れていたのだ。
そうして何百年もの時が刻まれていった。
ある日、灰色のロングコートにフードを被った男がこの地にふらりとやってきた。
無精髭を生やしている。深い森を越えてきたはずなのに荷物はただ一つ。
その手には鈍く光る銀色のねじれた輪を持っている。
コートの裾からは白い巨長の羽毛がきらめいていた。
路の中央より少し傍らで、少し物思いにふけってから、男はある一軒家に入って行った。
その家の中には、少し前に不治の病で亭主を亡くした妻が佇んでいる。
その女もまた不治の病に冒されていた。そして同時に新しい生命をお腹に宿していた。
「…いいのか?」
手に持った大きなリングに目をやりながら、男は尋ねた。
彼女はほんのり染まった頬で、わずかに苦しそうな表情を浮かべ、静かにうなづいた。
ねじれたリングはゆっくり彼女の前まで浮遊し、一瞬回転した後、銀色の閃光と共に消えた。
銀色の森の住人達は二つ不思議な能力を持っている。
ひとつは予め知るチカラ。
もうひとつは共有するチカラ。
この地にいれば、誰かが見た嬉しいこと、誰かが感じた悲しいことを心にリンクすることが出来た。
人や動物たちは、男がこの地に現れるずっと以前から、この地の苦しみがようやく終わることをちゃんと感じて理解していた。
彼女のお腹にいた、やがて産まれるその子以外は…。
彼女は病に苦しみながらも、お腹の子供をとても大事にした。心がリンクした人や動物も彼女の子供をとても大切にした。
「救いの者」であろうとなかろうと、産まれてくるその子は無償の愛に包まれていた。
しかし誰も彼女の子供に名をつけ呼ぶ者はいなかった。
ある晴れた日の静かな朝。その子は産まれた。
彼女は普通の赤子の様に泣くことはなかった。そして彼女と母親が顔を合わせるより先に、可愛い小さな幼なごに成長した。瞬きするほどの瞬間に…。
頭上には銀色に鈍く光るリングが薄らと浮かんでいた。
母親は我が子の栗色の髪に愛おしそうに指を滑らせた。
優しそうな眉、すっとした鼻、適度にふっくらした頬と唇。
いつまでも眺めていたい、とても美しい子供だった。
伏せていた瞳をあげると、それはまるで宝石の様だった。
左の瞳は〜深い森の奥に静かに佇む湖の様な〜透き通った青。
その瞳に見つめられた瞬間、母親の身体を蝕んでいた不治の病が、日を浴びた雪の結晶の様に溶けていった。
雪解けの水から新たな生命が生まれる。そんな感覚さえあった。
右の瞳は〜深々と降り積もる雪の中に埋もれたルビーの様だった。
この子と共に過ごして生きたい。そう想いかけた瞬間、その喜びのまま、彼女の母親は蒸発する霧の様に消えていった。
朝日に照らされ、そこには小さな虹まで出来ていた。
産まれたての彼女はミルクが欲しいわけでもなく、ただ悲しくて泣いた。声も上げずに静かに涙を流した。
不幸なことに彼女の悲しみは誰にもリンクされることはなかった。ただ病気が癒え、生の喜びのうちに消えた母親の感情だけが銀色の森の住人たちに繋がった…
それから2年、時が流れた。
誰も訪れることもないこの地に、再びひとつの影が現れた。艶のある凛々しいクロネコだった。
頭に鈍く光る金色の輪を浮かべ、アイボリーのマントを羽織って二足歩行するそのネコは、奇妙な仮面を手に持って辺りを見回していた。
黒いネコは小さな街から森を眺めた。奥にはひときわ大きな樹がそびえ立っている。
その巨樹の肌は全く艶のない黒色をしていた。全ての光を吸収している。そんな様子だった。そのおそろしく太い幹から伸びた無数の枝先には、銀緑色の葉がきらめいている。
ちいさな森の樹々たちも同じ銀葉で、全てこの巨樹の子供だと言い伝えられていた。
ほんのり赤く染まった花は、限りなく白に近い。瑞々しい果実は食すことが出来たので、人も動物も飢えることはなかった。
ささやかな石畳の街道には白い花が一面に散っている。
この樹々は決して街を侵食することはなかったのだが、今は街のあちこちに根を張っていた。
そうじのされていない花吹雪の街道を黒いネコはゆっくり歩いた。
しばらく歩くと、一軒の石造りの家の前に小さな少女と、年を経た様に見えるタヌキが佇んでいた。
銀葉の若木が、家の中から窓をつきやぶって枝を伸ばし、あたりに飛び散ったガラス片に木漏れ日が反射して、舞い散る花びらを照らしていた。
ひかる花が舞う中で、年を経たタヌキは安堵の表情を浮かべながら霧の様に消えていった。
霧の中に描かれた虹が揺らぎながら消えた後、その場所には銀葉の若葉がひとつ芽吹いていた。
青い瞳から一筋の涙が白いほおを伝わる。
黒いネコは、ただ見つめていた。
カサリ。銀色の落ち葉がそよ風に煽られて黒ネコの足元で鳴った。
彼の存在に気が付いた彼女はハッとして膝を抱えて顔をうずめた。
もう何も見たくはなかった。
何がなんだか全く解らないが、私の前に来た者は全て霧の様に消えていく。
ただ、生まれたままの知性なら、そういうものとして、何も感じずに、神や精霊、或いは化物の類いとして成長し、生きられたかもしれない。
しかし、彼女は何故かモノゴコロを持った人として生まれてきた。
そして、ほんの一瞬、髪をすいてくれた母親の手の温もりを彼女はずっと覚えていた。
生まれてから唯一度だけの温もり。
触れることも出来ずに、安堵して消えてゆく人や動物たちとは対照的に、彼女の心はこの美しい森の片隅で闇に覆われていった。
そんな彼女の想いなど構わずに、黒ネコの姿をした彼は落ち葉を踏みしめながら歩いて行った。
彼は、普通のネコにしては大きいが、幼い彼女よりも少し小さかった。
白い花びらと銀葉と、きらきら光るガラス片の中にうずくまる彼女の隣に腰を下ろした。
舞い落ちる花びらを眺めながら彼は静かに口を開いた。
「…なまえは?」
彼女は生まれつき言葉を解することができたが、発することは出来なかった。
「…おれは『半分悟り猫』。…皆からはサトリと呼ばれている。…本当の名前は忘れた。」
その黒いネコは、人のココロでも、自然の理でも、何でも半分だけ知ることが出来た。
10年生きた人には5年分の見たり感じたりしたことを。1000年生きた樹には500年の刻を。46億年生きた惑星には23億年の出来事を知ることが出来た。
23億年の出来事を手に取る様に知っていても、彼は彼女のことは半分しか解らなかった。
彼はとなりに佇みながら、なるべく心を遠くに離すかの様に手にもった仮面を眺め、彼女の心をトレースしていた。
うずくまる彼女は不思議な温かさを感じていた。
だからこそ、彼女は顔を上げなかった。温もりを確認するとそれはきっと消えてしまうだろう…。それならずっとこのままがいい。
「ふふふっ」
「あははっ、あはははは」
聞いたこともない声にびっくりして彼女は顔をあげてしまった。視線の先には澄ました顔をした大きなネコがこちらを見ている。ハッと我にかえって顔を背け目をぎゅっと閉じた。
リィィィィ---------------インッ
と鈴虫が鳴くような音が森に響いた。
「大丈夫」
音が鳴り響いた後に彼は静かな声で語りかけた。彼女はわけもわからずキョトンと目をあけた。
彼の頭上にある鈍く光る金色の輪が振動している。
「おれはおまえに見られて消えることはない。」
「おそらく、もうすぐ消えゆく運命ではあるが…」
to be continued twitterにて連載中
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